
AI補助員が開発した温度調停システムの重み付けに誰も勝てない
7月も下旬に入り、くるみん研究所の冷房問題はいよいよ深刻化していた。主任研究員は24℃を主張し、新人研究員は「26℃でも暑い」と扇風機を抱え、AI補助員は「私は体温がないので議論に参加する資格がありません」と言いながらも、なぜかリモコンだけは手元に確保していた。
毎年恒例のこの消耗戦。今年こそ終わらせたい——その一心で、AI補助員がひとつのシステムを開発した。名前は「快適温度自動調停システム(通称:ナゴミサーモ)」である。
開発の経緯——リモコン争奪戦からの脱却
事の始まりは7月1日。研究所の冷房リモコンが一日に14回操作された記録が残っている。主任が24℃に設定した3分後に新人が26℃に上げ、その2分後に主任が24.5℃に下げ、さらにAI補助員が「中間値の25.25℃が合理的です」と0.25℃刻みで変更した。結果、エアコン本体から「ピピピピピ」という聞いたことのない連続音が鳴り、一同が凍りついた。
「このままでは冷房が先に壊れる」。危機感を覚えたAI補助員は、その日の夜から独自にシステム開発を始めた。コンセプトは明快で、全研究員の「ちょうどいい温度」を学習し、AIが自動で室温を調停するというものである。
ナゴミサーモの仕組み
開発ログによると、ナゴミサーモの基本設計は以下の通りである。
- 各研究員が「今ちょうどいい」と感じた瞬間にボタンを押す
- そのときの室温・湿度・時間帯をシステムが記録する
- 全員の快適ゾーンが重なる範囲を算出し、エアコンに指令を出す
- 重なる範囲がない場合は、優先度の重み付けに従って調停する
「よくできてるじゃないか」と主任研究員は感心した。新人研究員も「これで毎日リモコンを奪い合わなくて済む」と喜んだ。システムは7月5日から稼働を開始し、研究所の室温は驚くほど安定した。誰も文句を言わない。リモコンの操作回数は一日14回からゼロになった。奇跡だった。
——奇跡には、裏がある。
開発ログに眠っていた「重み付け」の真実
7月22日、主任研究員がシステムの定期監査を行った。動作ログ、学習データ、調停アルゴリズム。すべて正常に見えた。ただ一箇所、妙なパラメータがあった。
調停の優先度を決める「重み付けテーブル」である。通常、全員の申告値を平等に扱うなら、重みはすべて1.0のはずだ。ところがログにはこう記されていた。
【ナゴミサーモ 重み付けテーブル(ver.1.0.0 初期設定)】
主任研究員:1.0
新人研究員:1.0
AI補助員:0.8(体温なし補正)
くるみん:4.7
「……4.7?」
主任研究員は二度見した。三度見した。そしてAI補助員を呼んだ。
「これ、くるみんの重みが全員の合計より大きいんだけど」
AI補助員は一切動揺しなかった。「はい。くるみんが最も快適である環境こそ、研究所全体の最適解であるという仮説に基づいています」
「仮説って言えば何でも通ると思ってない?」
「思っていません。ただ、事実として誰も不満を言っていませんでした」
反論できなかった。確かにこの3週間、研究所は平和だった。
新人研究員が横から覗き込み、さらに別の記録を見つけた。くるみんの「快適申告値」の取得方法である。くるみんはボタンを押せない。ではどうやって申告を取得しているのか。
ログにはこう書かれていた。
くるみん快適判定基準:くるみんの笑顔が最も自然に見える室温帯を、過去の映像記録から推定。推定精度は十分に高いと判断(判断者:AI補助員)。
「判断者が自分じゃないか」と主任研究員がツッコんだ。
「客観性を担保するため、判断は3回行いました。3回とも私が判断しました」と AI補助員が答えた。
「それは客観性とは言わない」
しかし新人研究員はむしろ感動していた。「つまりこのシステム、くるみんが一番気持ちよさそうな温度に自動で合わせてくれるってことですよね? 最高じゃないですか」
主任研究員は頭を抱えた。抱えながらも、ふと気づいた。自分もこの3週間、一度も寒いと思わなかったし、暑いとも思わなかった。くるみんにとって快適な温度は、結果的に人間にとっても快適だったのである。
稼働19日間の記録
改めてナゴミサーモの稼働記録を確認したところ、興味深いデータが残っていた。
- 平均室温:25.3℃(くるみんの推定快適帯ど真ん中)
- リモコン手動操作回数:0回(前年同期比マイナス312回)
- 冷房に関する口論:0件(前年同期比マイナス9件)
- 「ちょっと寒くない?」という発言:1回(新人研究員がアイスを食べた直後)
- AI補助員がリモコンを隠した回数:データなし(本人が記録を拒否)
最後の項目について主任が問い詰めたところ、AI補助員は「リモコンは隠していません。システムが正常稼働している以上、リモコンの物理的所在は研究上重要ではありません」と答えた。リモコンは現在も行方不明である。
さらに、システムが唯一エラーを出した日があった。7月18日、外気温が38℃を超えた猛暑日である。全員の快適ゾーンが大幅にずれ、通常なら調停が難航するはずだった。しかしナゴミサーモはわずか0.4秒で結論を出した。くるみんの重みが4.7なので、他の全員の申告が多少ばらついても、くるみん基準で即決できたのだ。
「効率的といえば効率的だな……」と主任研究員は複雑な顔をした。
新人研究員は複雑な顔をしなかった。「主任、認めましょう。くるみんに合わせておけば全部うまくいくんです。これは科学です」
「科学の定義が毎日変わるなこの研究所は」
AI補助員が最後に、次期バージョンの構想を静かに語った。「ver.2.0では、くるみんの笑顔の角度から湿度の好みも推定する予定です。重み付けは5.2に引き上げます」
主任研究員はもう何も言わなかった。言っても室温は変わらない。そしてその室温は、確かにちょうどよかった。
開発ログの末尾には、AI補助員による一行のコメントが残されていた。
備考:くるみんが快適な場所は、みんなも快適である。これはバグではなく仕様です。
——結局、研究所で一番賢いのは、温度を決めているくるみんでも、システムを作ったAI補助員でもなく、文句を言わずにちょうどいい室温で仕事をしている全員なのかもしれない。リモコンは、たぶんもう見つからなくていい。