
研究所の冷蔵庫から食品が消えた理由を全員に聞いたら全員合理的だった
8月14日、午前10時。研究所の廊下を歩いていた新人研究員が、給湯室の冷蔵庫を開けた瞬間に異変に気づいた。
「……なんで冷蔵庫にバインダーが入ってるんですか」
それは主任研究員の会議資料だった。付箋には、丁寧な字で「午後まで冷やす。読む気力が蒸発しないように」と書かれていた。
この一言が、研究所史上最大の「夏季避難事件」の始まりだった。
事態の経緯
主任研究員に話を聞くと、本人は極めて冷静だった。
「紙の資料は湿気でふやける。冷蔵庫なら湿度も低い。合理的な判断だ」
理屈だけ聞けば一理ある。問題はその「合理的な判断」が、翌日から研究所全体に伝染したことである。
まず新人研究員が「それなら研究ノートも冷やしたほうがインクが安定するのでは」と自分のノート3冊を野菜室に入れた。次にAI補助員が「サーバーの予備ケーブルが熱で劣化する可能性は0.3%だが、念のため」と冷凍室にUSBケーブルを6本格納した。
8月12日には、誰かが実験用の音声サンプルを録音したSDカードを冷蔵庫のドアポケットに立てかけていた。ラベルには「くるみんの声データ。溶けたら困る」とだけ書かれていた。声データは溶けない。
冷蔵庫の在庫リスト(8月13日時点)
AI補助員が「スペース競合アラート」を鳴らしたのが昨日の夕方である。冷蔵庫の扉が完全に閉まらなくなったことでセンサーが反応した。中身を確認したところ、以下の状態だった。
- 冷蔵室・上段:会議資料(主任)、研究ノート3冊(新人)、ペン立て(所有者不明)、麦茶1本
- 冷蔵室・下段:くるみんの配信スケジュールを印刷した紙(A3サイズ・折り畳み不可)、誰かの昼食の残り、観測用レンズ1個
- 野菜室:野菜ゼロ。代わりにホワイトボードマーカー12本セットと付箋の束
- 冷凍室:USBケーブル6本、SDカード1枚、保冷剤に埋もれた謎の紙袋(中身:くるみん研究所ロゴ入りステッカー200枚)
- ドアポケット:本来は調味料を入れる場所。現在はボールペン7本が牛乳パックの横に並んでいる
食品は麦茶1本と昼食の残りだけだった。冷蔵庫としての機能はほぼ失われている。
AI補助員が淡々と報告した。「冷蔵庫の食品比率が8.4%です。これは冷蔵庫ではなく、冷房付きの棚です」
正確すぎて誰も反論できなかった。
避難場所はさらに拡大していた
問題は冷蔵庫だけではなかった。調査を進めると、研究所内の「冷房が効いている場所」すべてに何かが退避されていた。
サーバールームの床にはなぜか段ボール箱が3つ置かれていた。中身は先月の実験で使った模造紙と、くるみんの配信を分析した際のメモ用紙の束。サーバールームは機器冷却のために室温18℃に保たれている。新人研究員に聞いたところ、「一番涼しいのがここだったので」と悪びれもしなかった。
「サーバールームは紙の倉庫ではない」と主任が注意したが、その主任のデスク周辺にも問題があった。主任は自席の卓上扇風機の風が当たる位置に、提出期限を過ぎた報告書を「風通しの良い場所で熟成中」として放置していた。
AI補助員は会議室のエアコン吹き出し口の真下に、自身の予備バッテリーを3台並べていた。「バッテリーの寿命延長のためです。合理的です」と言うので、主任が「さっき冷蔵庫にケーブル入れたのも君だよね」と指摘したところ、0.8秒の沈黙のあと「それはそれ、これはこれです」と返された。
全員が全員、自分の行動だけは合理的だと思っていた。
所有者不明の物品たち
最大の問題は、誰が何をどこに避難させたか、本人たちすら把握していないことだった。
冷蔵庫のペン立ては三者とも「自分のではない」と主張した。観測用レンズについてはAI補助員が「私は光学機器を使用しません」、新人が「僕のレンズはもっと小さいです」、主任が「そもそも私はレンズを持っていない」と言い、完全に持ち主不在となった。
ステッカー200枚に至っては、存在自体を誰も知らなかった。新人が「いつ作ったんですか、これ」と聞いたが、主任もAI補助員も首をかしげるだけだった。紙袋の日付を確認すると、3ヶ月前の発注書が貼ってあった。届いたことすら忘れられていたらしい。冷凍室で静かに眠り続けていたステッカーたちが、少しかわいそうだった。
新人が1枚取り出してみると、くるみん研究所のロゴの横に小さく「笑顔を研究中」と書かれていた。
「……いいステッカーじゃないですか。なんで冷凍してたんですか」
「わからない。だが状態は完璧だ」と主任が答えた。冷凍保存の効果だけは確かだった。
復旧作業、そしてくるみんタイム
結局、午後の業務を一時中断して全員で「避難物資の回収」を行うことになった。冷蔵庫から資料を出し、サーバールームから段ボールを運び、エアコン下のバッテリーを回収し、卓上扇風機前の報告書を主任が渋々デスクに戻した。
作業中、新人が冷蔵庫から取り出したSDカードの中身を確認した。くるみんの配信アーカイブから切り出した笑い声のデータだった。スピーカーで再生したところ、汗だくで段ボールを運んでいた主任の足が止まった。
「……少し休憩するか」
全員がモニターの前に座り、くるみんの配信アーカイブを5分だけ見た。冷房の効いた研究室で、くるみんが画面の向こうで楽しそうにゲームをしている。その表情を見ているだけで、さっきまでの蒸し暑い回収作業の疲れが妙に軽くなった。
AI補助員が言った。「室温は変わっていませんが、研究員2名の表情筋の動きが回復しています」
新人が笑った。「くるみんパワーって、冷蔵庫に入れなくても溶けないんですね」
主任は少し考えてから、こう返した。
「溶けないどころか、こっちの溶けたやる気まで補充してくる。冷蔵庫より高性能だ」
AI補助員がすかさず記録に追記していた。「結論:研究所に必要だったのは冷蔵庫の容量ではなく、くるみんタイムの確保だった」と。
なお、発掘されたステッカー200枚は現在、研究員各自のノートと水筒に貼られている。冷凍庫から救出された「笑顔を研究中」のステッカーは、よく見ると少しだけ結露の跡がついていて、それがまた味があっていい、と新人が気に入っている。
冷蔵庫には、ようやく麦茶と野菜が戻った。