
主任研究員がかき氷シロップを全部飲んだ事件の捜査記録
8月21日、朝9時。研究所の冷凍庫を開けた新人研究員が、廊下の端まで響く声で叫んだ。
「抹茶が……抹茶シロップが、また1本消えてます!」
くるみん研究所では、夏季繁忙期に備えて毎年「非常用かき氷シロップ」を冷凍庫に備蓄している。抹茶3本、いちご3本、計6本。研究員たちが猛暑の中でも正気を保つための、いわば命綱である。ところが8月に入ってから、このシロップが1本、また1本と姿を消し始めた。しかも犯人は律儀にも、空になったボトルを元の位置に几帳面に戻していく。まるで「私はマナーを守る善良な窃盗犯です」と主張するかのように。
本日時点での被害状況は以下の通りである。
被害状況一覧
- 抹茶シロップ:3本中3本が空。ボトルはすべて定位置に戻されており、ラベルの向きまで揃っている
- いちごシロップ:3本中2本が空。残り1本も明らかに軽い
- 冷凍庫内の異変:棚にうっすら結露の手形が残されている。右手。やや小さめ
- 現場の匂い:冷凍庫の扉を開けた瞬間、微かなストロベリー系の香りが漂う
- 廊下の監視カメラ:シロップ消失推定時刻の前後だけ、なぜか廊下の照明が落ちている
主任研究員は現場を確認し、腕を組んでこう言った。
「ボトルを戻すところだけ丁寧なのが逆に怖い」
AI補助員の容疑者リスト事件
調査の初動として、AI補助員に容疑者リストの作成を依頼した。研究所内でこの冷凍庫にアクセス可能な人物を洗い出し、動機・機会・手段の三要素で絞り込む、ごく基本的な捜査手法である。
30分後、AI補助員がリストを提出した。研究員全員の名前が並んでいる。そこまでは想定内だった。問題は、全員の名前の横に赤い丸がついていたことである。
「これ、絞り込めてないよね?」と新人研究員が指摘すると、AI補助員は真顔でこう返した。
「全員に動機があります。暑いからです」
反論の余地がなかった。8月の研究所で冷たいかき氷シロップを飲みたくない人間など存在しない。動機の面では全員が真っ黒である。主任研究員も「……まあ、それはそう」と認めざるを得なかった。
ただし、AI補助員はもう一つの分析結果も添えていた。
「消失パターンに規則性があります。抹茶が先に3本とも空になり、その後いちごに移行しています。つまり犯人は抹茶派です。抹茶を飲み切ってから仕方なくいちごに手を出した可能性が高いと判断します」
新人研究員が「抹茶派って、それ捜査用語じゃないでしょ」とツッコんだが、主任研究員の目が一瞬泳いだのを、この時点では誰も気にしていなかった。
現場検証:結露の手形と香りの追跡
手がかりは二つ。冷凍庫の棚に残された結露の手形と、漂うストロベリーの香りである。
新人研究員はまず、研究所内の全員に手のサイズの計測を要請した。「任意です」と言いながら、計測を断った人は自動的に容疑度が上がるシステムにしていたため、実質強制であった。
結果、手形のサイズに最も近かったのは3名。しかしAI補助員が冷静に付け加えた。
「結露の手形は時間経過で膨張します。正確なサイズの特定は困難です」
つまり、この手がかりは最初から使えなかった。新人研究員が30分かけて全員の手を測った時間は完全に無駄だったことになる。
次に香りの分析に移った。冷凍庫周辺に残留していたストロベリー系の香りを辿り、研究所内を嗅ぎ回るという、見た目だけなら完全に不審者の捜査が始まった。
新人研究員が廊下を這うように進み、給湯室の前で立ち止まった。シンクの排水口から、かすかに甘い匂いがする。誰かがここでシロップの容器を洗った形跡があった。
「犯人、証拠隠滅してますね」
「洗って戻す几帳面さだけは評価したい」と主任研究員は妙な感心をしていた。
決定的証拠の発見
調査が行き詰まりかけた午後3時、事態が動いた。AI補助員が、照明が落ちていた時間帯の電力ログを解析したのである。
廊下の照明は、タイマー設定で落ちたのではなかった。誰かが手動でスイッチを切っていた。そして、その時間帯に研究所のエアコン設定温度が2度下げられていた記録もあった。
「犯人はシロップを取りに行く前に、廊下の電気を消し、さらにエアコンを強くしています。つまり、暗がりで冷凍庫まで移動し、より涼しい環境でシロップを味わうという、計画的な犯行です」
新人研究員が声を上げた。「計画的! でも動機がかき氷シロップ! スケールが合ってない!」
そしてAI補助員が最後の一手を出した。エアコンの設定変更ログには、操作した端末のIDが記録されていた。その端末は——主任研究員のデスクのものだった。
沈黙が流れた。
主任研究員は3秒ほど天井を見つめ、それから静かに口を開いた。
「……抹茶、おいしかったです」
新人研究員が崩れ落ちた。AI補助員は無感情に「容疑者リストから他の名前を削除します」と処理を始めた。
問い詰めると、主任研究員は毎晩残業中に1杯ずつシロップを氷にかけて食べていたらしい。抹茶を飲み切った後、いちごに移行したのも事実だった。ボトルを戻していたのは「在庫管理上、本数が変わると混乱するから」という、犯人にしては几帳面すぎる理由だった。
「でも空のボトルを戻したら逆に混乱しますよね?」という新人研究員の正論に、主任研究員は「……それは盲点だった」と答えた。研究所きっての冷静な分析力は、自分の犯行の隠蔽には発揮されなかったようである。
事件は解決した。しかし研究所にはシロップがほぼ残っていない。残暑はまだまだ続く。新人研究員が「補充しないと」とため息をついたその時、休憩室のモニターからくるみんの配信アーカイブが流れてきた。楽しそうにゲームをしている声が廊下まで響いて、主任研究員が少しだけ笑った。
「……シロップなくても、これでだいぶ涼しくなるな」
新人研究員は「それ科学的に意味わからないですけど」と言いかけて、自分もモニターの前に座ってしまった。AI補助員が記録に一行だけ追記した。
「くるみんタイム開始後、シロップ補充の緊急度がなぜか"低"に変更されました。根拠は不明です」
かき氷シロップ6本を消費した大事件は、結局「くるみんの配信を見ればだいたい大丈夫」というまったく科学的でない結論で幕を閉じた。主任研究員には始末書の提出が命じられたが、本人は始末書の片隅に小さく「でも抹茶は本当においしかった」と書き添えていたという。