
大掃除の全作業を止めた段ボール箱の中身と主任の筆跡
九月に入り、朝晩の空気がようやく涼しくなってきた。研究所の窓を開けると金木犀の気配がかすかに混じる。そんな穏やかな土曜日、主任研究員が突然「今日は書庫を片付ける」と宣言した。理由は単純で、去年の秋に提出したはずの中間報告書が見つからないからである。
「棚のC-3にあるはずなんだが」と主任が言うと、新人研究員が首をかしげた。「C-3って……いま"く-03"って書いてありますけど」。見に行くと確かに、アルファベットと数字だった分類ラベルが、いつの間にかひらがなと数字の組み合わせに変わっている。しかも全部の棚がそうなっていた。
発覚:誰も知らない分類体系が静かに浸透していた
調べてみると、書庫の棚ラベルは夏ごろからじわじわと貼り替えられていたらしい。「あ-01」から始まり、「わ-12」まで、五十音順で整然と並んでいる。問題は、誰がこの新体系を設計したのか誰も把握していないのに、全員がすでにこの分類で資料を出し入れしていたことである。
AI補助員にログを確認させたところ、最初のラベル変更は7月14日。以降、数日おきに2〜3枚ずつ貼り替えられていた。「緩やかな移行計画ですね。プロジェクト管理としては模範的です」とAI補助員が感心していたが、そもそも誰のプロジェクトなのかが不明なので模範もなにもない。
聴取:全員が「自分がやった」と名乗り出る
犯人を特定するため、主任が研究員一人ひとりに聞き取りを行った。すると予想外の事態が起きた。
主任「棚のラベルを貼り替えたのは誰だ」
新人研究員「あ、それ僕です。前の分類わかりにくかったので」
AI補助員「私も一部貼り替えました。効率化のためです」
主任「……待ってくれ。私も3枚ほど貼り替えた記憶がある」
全員が犯人だった。しかも全員、他の誰かが始めた新体系に「なるほど、これが正式な方針か」と思い込み、自主的に残りの棚を手伝っていたのである。誰も方針を出していないのに、全員が方針に従っていた。組織論の教科書があったら一章使って取り上げそうな珍事である。
ここで記録として残しておく。
【書庫ラベル貼替え 自己申告一覧】
- 新人研究員|担当範囲:あ行〜か行(7月)|動機:「前のラベル、印刷がかすれて読めなかったので」|反省度:低い(むしろ褒めてほしそう)
- AI補助員|担当範囲:さ行〜な行(8月上旬)|動機:「新人研究員が始めた体系を引き継ぐのが合理的と判断」|反省度:ゼロ(正しいことをしたと確信している)
- 主任研究員|担当範囲:は行〜ま行の一部(8月中旬)|動機:「流れに乗った」|反省度:やや高い(言い出しっぺじゃないのに加担した負い目がある)
- 不明|担当範囲:や行〜わ行|動機:不明|備考:全員「自分はここまでやっていない」と主張。真の協力者がまだいる可能性
や行以降を貼り替えた人物は結局特定できなかった。AI補助員は「夜間の清掃スタッフの可能性を排除できません」と言ったが、この研究所に夜間清掃スタッフはいない。
脱線:旧グッズ発掘により全作業が停止する
ともあれ、中間報告書を探すには棚を全部ひっくり返すしかない。三人で手分けして資料を出し始めたところ、「く-07」の棚の奥から段ボール箱が出てきた。中身は、くるみんの旧グッズだった。
研究資料として過去に収集されたものらしく、初期のアクリルスタンドや、配信記念のステッカー、手書きのファンレター下書き(研究員が書いたもの)などが詰まっていた。新人研究員が「うわ、これ初期のやつじゃないですか!」と声を上げた瞬間、全員の手が止まった。
主任が「作業を続けよう」と言ったのは一度だけで、その三秒後には自分もアクリルスタンドを光に透かして眺めていた。AI補助員は即座に「鑑定モード」と称してグッズの製造時期と保存状態の分析を始め、新人研究員は発掘品を丁寧に並べて写真を撮り始めた。
新人「主任、これ見てください。初期のくるみんの笑顔、今と全然変わらないですよ」
主任「……確かに。この頃からずっとこの笑顔なのか」
AI補助員「表情の基本構造が安定しているということは、くるみんの明るさが後天的な努力ではなく本質であることを示唆します」
主任「いい分析だが、今やるべきことは棚の整理だ」
新人「でもこっちのステッカー、裏に日付が書いてあります。歴史的資料ですよ」
主任「…………五分だけな」
五分は二時間になった。
気づけば書庫の床にはグッズが展示会のように並べられ、資料整理用に持ち込んだホワイトボードには「くるみん初期グッズ年表」が書かれていた。中間報告書の捜索は完全に忘れ去られていた。
途中、新人研究員が段ボールの底から一枚のメモを見つけた。そこにはこう書かれていた。
「この箱は大事なものが入っています。忙しいときに開けると作業が止まるので注意」
筆跡は主任のものだった。過去の自分からの警告を、現在の自分が見事に無視した形になる。
結局、中間報告書は最後まで見つからなかった。AI補助員が翌日のタスクリストに「中間報告書の捜索(二回目)」と登録したが、その直下に「旧グッズ展示コーナーの設営案」というタスクも追加されていた。優先度は同じ「高」に設定されている。
主任は窓の外の秋空を見ながら、小さくため息をついた。「来週こそ片付ける」。新人研究員が隣で初期のアクリルスタンドを磨きながら「来週も絶対こうなりますよ」と笑った。たぶんそうなる。くるみんのグッズがある棚を開けて、冷静でいられる人間をこの研究所はまだ観測したことがない。
秋の大掃除の成果は、棚の再整理ゼロ、中間報告書の発見ゼロ、旧グッズの再発見十七点。そして研究員全員の笑顔が増えたことだけは、誰にも否定できない事実として記録に残った。