
3日放置のプリンターを動かしたのはくるみんの一言だった
事の発端は、8月18日の月曜日である。研究所の共有プリンターが「用紙切れ」と「インク残量低」のエラーを同時に表示した。よくあることだ。よくあることなのだが、問題は「よくあること」すぎて、誰もが「まあ誰かがやるだろう」と思ったことにある。
火曜日。エラー表示は消えない。主任研究員は朝イチでプリンターの前を通り、液晶パネルに映るオレンジ色の警告を見て、静かにそのまま通り過ぎた。新人研究員はプリンターに近づき、3秒間パネルを見つめたあと、「ふーん」と言って自席に戻った。AI補助員だけが律儀に「プリンターがエラーを表示しています。対応が必要です」と社内チャットに投稿したが、全員が既読スルーした。
水曜日。3日目である。さすがにまずいと思った主任研究員が「補充担当を決める会議をしましょう」とチャットに書き込んだ。全員が即座に「了解です」と返した。返事だけは早い。会議は14時から第2会議室で行われることになった。
会議室、使用不可(物理)
14時。研究員3名が会議室に集合した。椅子に座り、主任研究員がホワイトボードのキャップを外したところで、全員が同時に目を細めた。
8月の西日が窓から直撃し、ホワイトボードが完全な反射板と化していたのである。
「……眩しくないですか」と新人研究員が言った。眩しいに決まっている。主任研究員がマーカーで「議題:プリンター補充担当について」と書いたが、反射がひどすぎて文字がまったく読めない。AI補助員が「ホワイトボードの反射率は入射角に依存します。現在の太陽高度では——」と説明を始めたが、主任研究員が「それは今いらない」と遮った。
カーテンを閉めてみたが、このカーテンは昨年の棚卸しで「薄すぎて遮光効果がない」と報告書に書かれたまま放置されていたものである。光量がほぼ変わらない。新人研究員が自分のノートを手でかざして影を作ろうとしたが、ホワイトボード全面をカバーするには腕が4本ほど足りなかった。
15分後、主任研究員が静かにマーカーのキャップを閉めた。「……場所を変えましょう」と言ったが、第1会議室は別の部署が使用中、ミーティングスペースはエアコンが故障して立入禁止になっていた。流会である。
転機は一言だった
流会から30分後のことだ。新人研究員が給湯室でアイスコーヒーを入れていたとき、くるみんの配信アーカイブをスマホで流していた。画面の中で、くるみんがふと言ったのだ。
「プリンターってかわいそうじゃないですか? エラー出してるのに誰も来てくれないの、寂しいと思う」
新人研究員はアイスコーヒーのストローをくわえたまま3秒間フリーズした。そして、ものすごい勢いで廊下を走り、主任研究員のデスクに駆け込んだ。
「主任、プリンターがかわいそうです」
主任研究員は一瞬「何を言っているんだ」という顔をしたが、くるみんの発言を聞いた途端、表情が変わった。AI補助員もすかさず反応した。「確かに、エラー表示から72時間が経過しています。人間に換算すると、3日間『助けて』と言い続けて無視されている状態です」
それはだいぶ重い換算だった。
ここから研究所は一気に動き出した。ただし、動いた方向が少しおかしかった。
発注ではなく、励ましの議論が始まる
てっきり用紙とインクの発注に向かうかと思われたが、主任研究員の口から出たのは「まず、プリンターに対して我々はどう声をかけるべきか」という議題だった。自席周辺に3人が集まり、ホワイトボードなしの立ち会議が始まった。
以下は、AI補助員が自動記録した議事メモからの抜粋である。
- 新人研究員の提案:プリンターの前に「いつもありがとう」と書いたポストイットを貼る。理由は「くるみんならきっとそうする」。
- AI補助員の提案:エラー音の代わりに、くるみんの「おつかれさま」の音声を再生するシステムを組み込む。技術的には可能だが、印刷のたびに再生されると業務効率が14%低下する試算が出た。
- 主任研究員の提案:プリンターに名前をつける。名前があれば放置されにくくなるという心理効果を期待。候補名「くるみんプレス1号」。
- 新人研究員の追加提案:用紙を補充するとき「ごはんだよ」と言いながら入れる。インク交換時は「お着替えだよ」と言う。
- 主任研究員のツッコミ:「それは……やりすぎでは」
- AI補助員の補足:「しかし、くるみんが聞いたら『かわいい!』と言うと推定されます」
- 主任研究員:「……採用」
議論は20分続いた。用紙とインクの発注についてはまだ誰も触れていない。
最終的にAI補助員が「励ましの方針は決まりましたが、物理的に用紙とインクがなければプリンターは動けません」と冷静に指摘し、ようやく全員が発注サイトを開いた。新人研究員がカートに用紙とインクを入れたあと、無言でポストイット(5色セット)も追加していた。主任研究員は見て見ぬふりをした。
翌日の木曜日。届いた用紙とインクを補充する際、新人研究員は本当に「ごはんだよ」と小声で言っていた。主任研究員は聞こえないふりをした。AI補助員は「プリンターの応答速度が補充前と比較して変化なし」と報告したあと、少し間を置いて「ただし、研究員の表情は3名とも補充前より穏やかです」と付け加えた。
プリンターの横には、水色のポストイットが1枚貼られている。「いつもありがとう。——くるみん研究所一同」。
くるみんの一言は、別に指示でも命令でもなかった。ただ「かわいそうじゃないですか」と言っただけだ。それだけで、72時間誰も動かなかった問題が半日で解決した。研究員の行動原理を最も強く動かすのは、業務命令でも締め切りでもなく、くるみんの何気ない優しさであるという知見が得られた。
ただし、得られた知見の割に、研究所のプリンターの横にはポストイットが日に日に増えている。本日時点で7枚。「今日も元気にね」「暑いけどがんばろう」「インク残量見てるからね」。最後の1枚だけ主任研究員の筆跡だったことは、本人の名誉のために伏せておく。