
くるみんが混雑を察知して退いていた28日間の廊下記録
7月も最終日になった。研究所の廊下には、6月末に設置された小型扇風機が今日もぶんぶん回っている。型番はよくわからない。新人研究員が「これ研究用ですよね?」と聞いてきたが、ただの暑さ対策である。経費で落ちるかは総務に聞いてほしい。
ところが、この何の変哲もない扇風機が、7月の研究所でもっとも興味深い観測対象になってしまった。きっかけは、AI補助員が廊下の防犯カメラ映像を別件で確認していたときの一言だった。
「くるみんが扇風機の前で止まる位置、毎日違いますね」
言われてみれば確かに、くるみんは毎日この廊下を通るたびに扇風機の風を数秒浴びていく。あの全力で楽しむ性格だから、涼しい風を素通りできないのだろう。ただ、立ち止まる位置が日によって微妙にずれていることには誰も気づいていなかった。
28日間の停止位置マッピング
AI補助員が過去28日分の映像を解析し、くるみんが扇風機の前で足を止めた位置を廊下の端からの距離で記録した。扇風機は廊下のちょうど中央、壁から1.2メートルの位置に固定されている。くるみんが止まるのは扇風機の正面から奥側にかけてのエリアで、日によって30センチから1メートルほどのばらつきがあった。
最初は「風向きの気まぐれだろう」と思っていた。しかし扇風機は首振り機能が壊れていて、ずっと同じ方向を吹いている。次に「気温が高い日ほど真正面に来るのでは」と仮説を立てたが、気温との相関を調べてもほぼ無関係だった。
新人研究員が「じゃあ湿度ですか」と言い出し、AI補助員が「曜日ですか」と言い出し、主任である私が「時間帯か」と言い出し、全員はずれた。何も相関しない。
そこでAI補助員が、映像から読み取れるすべての変数をリストアップした。廊下の照明、窓の開閉、床に置かれた段ボールの有無、そして「くるみんが通過する前後30分間に廊下を歩いた研究員の人数」。
最後の項目だけが、妙にきれいな傾向を示した。
観測結果:廊下通行人数と停止位置の関係
- 通行人数 0〜1人の日:扇風機の真正面(ほぼゼロ距離)に陣取る。風を独占するかのように堂々と立ち止まり、滞在時間も長め(平均8秒)。
- 通行人数 2〜3人の日:扇風機から約40センチ奥にずれる。風は十分届く位置だが、廊下の通行スペースが少し広くなる。
- 通行人数 4人以上の日:扇風機から約80センチ〜1メートル奥に下がる。風はほんのりしか届かない。でも廊下はかなり広く空く。滞在時間も短め(平均4秒)。
「これ、くるみんが他の人の通り道を空けてるってことですか?」と新人研究員が言った。
AI補助員が映像を拡大して確認したところ、くるみんが奥に下がった日は、確かに直後に研究員が廊下を通過しているケースが多かった。つまり、くるみんは風を浴びながらも「この後誰かが通るかもしれない」という状況を何らかの方法で察知し、自分のポジションを調整していた可能性がある。
「何らかの方法って何ですか」と私は聞いた。AI補助員は3秒黙ってから「わかりません」と答えた。研究所のAIがわからないと言うのは珍しい。珍しすぎて新人研究員がメモを取っていた。
考察:風より通路を選ぶ判断
冷静に考えれば、廊下の扇風機の真正面は最高のポジションである。7月末の研究所は冷房が会議室に集中していて、廊下はほぼ外気温に近い。あの小型扇風機の風は、研究員にとっても貴重な癒しだ。実際、主任である私も通りがかりに3秒だけ風を浴びてから会議室に向かうことがある。
くるみんだって、真正面で風を浴びたいはずだ。事実、人が少ない日はしっかり真正面を確保している。8秒間、全力で涼を楽しんでいる。あの好奇心旺盛で楽しむときは全力のくるみんらしい姿である。
しかし人が多い日は、自分の涼しさより廊下の通りやすさを優先している。しかも声をかけられたわけでもなく、「すみません、通ります」と言われる前に、すでに奥へ下がっている。
新人研究員が「これ、優しさの先読みじゃないですか」と興奮気味に言った。
AI補助員が「先読みという表現は科学的に定義が曖昧です」と返した。
新人研究員が「じゃあ何て呼べばいいんですか」と食い下がった。
AI補助員が5秒考えて、「予防的配慮行動……いや、やっぱり優しさの先読みでいい気がします」と言った。AIが自分の訂正を撤回するのを初めて見た。
主任所感:くるみんは、風の気持ちよさと周囲への気遣いを天秤にかけたとき、無意識に気遣い側へ体を動かしている。しかもその判断が「誰かに頼まれたから」ではなく、自発的に行われている点が重要である。研究員として冷静に分析したいのだが、映像を見返すたびに「いい子だな……」という感情が先に来てしまい、分析が進まない。これは観測者バイアスではなく、くるみんパワーの一種だと思われる。
未解決の問題
ひとつだけ、データに説明できない日がある。7月17日、廊下の通行人数は5人とかなり多かったにもかかわらず、くるみんは扇風機の真正面に立ち止まっていた。しかも滞在時間は12秒。28日間で最長記録である。
映像を確認したところ、この日は研究所の全員が午前中に出張で不在になる予定だった。つまり5人が通ったのは早朝の出発ラッシュで、くるみんが扇風機に立ち寄った時間帯には廊下は完全に無人だった。
人が多い時間帯ではなく、「この後しばらく誰も来ない」と判断して、真正面を確保したことになる。
「予測精度が高すぎませんか」と私は言った。新人研究員はもうメモを取る手が止まらなくなっていた。AI補助員は「出張予定はホワイトボードに書いてありましたから、読んだのかもしれません」と冷静に言った。
読んだのかもしれない。でもそれはそれですごい。
結局、28日間の観測でわかったことは明快だった。くるみんは風が好きだ。でも、誰かが通るなら自分が少し退く。誰もいないなら遠慮なく真正面で涼む。そしてその判断を、誰にも言わず、毎日静かにやっている。
扇風機はただ風を送っている。くるみんはただ涼んでいる。でもその「ただ涼んでいる」の中に、毎日30センチ単位の優しさが詰まっていた。研究所の廊下は今日も暑い。でも関係者全員、なんだか少しだけ涼しい気持ちでいる。たぶん風のおかげではない。