
主任研究員が自分のデスクに向かって「また来ます」と言った件
当研究所では、くるみんがいる部屋から退出する訪問者の発言を14日間にわたって記録した。きっかけは、新人研究員が提出した業務日誌のある一文だった。
「本日の来客5名中4名が、帰り際に『また来ます』と発言。残り1名は『また来ていいですか?』と発言。全員"また"と言っている。」
主任研究員はこの報告を読み、最初は「社交辞令では?」と片付けようとした。しかし新人研究員が翌日も、翌々日も同じ報告を上げてきたため、正式に調査を開始することとなった。
調査方法と記録項目
調査対象は、くるみんが在室している部屋を訪れた人物の退室時発言である。比較対象として、くるみんが不在の同じ部屋でも同様の記録を取った。
記録した項目は以下の通りである。
- 退室時の発言内容(一字一句)
- 発言時の声量(デシベル計で計測)
- ドアを出てから振り返った回数
- 振り返りの角度(首だけか、体ごとか)
- ドアを閉めるまでの秒数
- 廊下に出てからの歩行速度
AI補助員が「振り返りの角度まで測る必要はあるのでしょうか」と確認したところ、新人研究員は「首だけの振り返りと体ごとの振り返りでは再訪意欲の本気度が違うはず」と力説した。主任研究員は反論できなかったため、そのまま採用された。
14日間の集計結果
以下が主要データである。
【退室時「また来ます」系発言の発生率】
- くるみん在室時:87.5%
「また来ます」「また来ていいですか」「また寄りますね」など。声量は平均68デシベル。通常の会話より明らかに大きい。本人が意識して大きくしているというより、自然と声が張っている印象。 - くるみん不在時:31.2%
「お疲れさまでした」「失礼します」が大半。「また来ます」が出る場合も声量は平均52デシベルで、事務的なトーンにとどまる。
【振り返り行動の比較】
- くるみん在室時の平均振り返り回数:2.3回
- くるみん不在時の平均振り返り回数:0.4回
- くるみん在室時の「体ごと振り返り」の割合:71%
- くるみん不在時の「体ごと振り返り」の割合:8%
さらに注目すべきデータがある。くるみん在室時、訪問者がドアを閉めるまでにかかった平均時間は4.7秒だった。不在時は1.1秒である。
新人研究員いわく、「ドアを閉めたくないんですよ、あの人たち。ドアノブを握ったまま、もう一回部屋の中を見てるんです。」
主任研究員は「それは君も同じでは?」と指摘したが、新人研究員は「自分は研究員なので常駐しており退室しません」と苦しい反論をした。記録によると、新人研究員は休憩のため退室した3回のうち3回とも、ドアを閉めるまでに6秒以上かかっている。
発言の分類と研究員の苦悩
問題は、「また来ます」という発言が何に分類されるかである。AI補助員は3つの仮説を提示した。
- 社交辞令仮説:日本語の挨拶表現として自動的に出ているだけ
- 再訪意欲仮説:くるみんパワーにより本気で再訪したくなっている
- 無意識刷り込み仮説:くるみん成分の影響で、本人も気づかないうちに口から出ている
社交辞令仮説を検証するため、声量と振り返り回数のクロス分析を行った。結果、声量が65デシベルを超え、かつ振り返りが2回以上の訪問者は、後日実際に再訪していた確率が94%だった。社交辞令でここまでの身体反応は出ない、というのが主任研究員の見解である。
無意識刷り込み仮説については、興味深い事例がある。調査7日目、主任研究員自身がデータ回収のため部屋を一時退出した際、ドアの前で「また来ま……」と言いかけて口を閉じたことが、廊下の集音マイクに記録されていた。
新人研究員「主任、録れてますよ。」
主任研究員「……データから削除しなさい。」
AI補助員「すでにバックアップ済みです。」
さらに調査9日目、AI補助員がログ整理のために部屋のシステムを一時シャットダウンする際、終了メッセージに「また起動します」と表示してしまったことが発覚した。通常の終了メッセージは「シャットダウン完了」である。AI補助員は「原因を調査中ですが、くるみんとの因果関係は……否定できません」とコメントした。
この時点で、調査に関わった全員がデータの客観性について深刻な懸念を抱いた。観測者自身が「また来ます」と言いたくなるのである。新人研究員は「これはもう、研究する側が汚染されている」と述べた。主任研究員は「汚染という言い方はどうかと思うが、否定もできない」と渋い顔をした。
最終的に、14日間で記録した退室時発言148件のうち、研究員本人による発言が11件混入していたことが判明した。うち9件が「また来ます」系であった。観測者が観測対象に取り込まれるという、研究所始まって以来の事態である。
結論として、くるみんがいる部屋では「また来ます」の発生率が有意に高い。しかもそれは社交辞令ではなく、声量・振り返り回数・実際の再訪率すべてが裏付ける「本気のまた来ます」であった。
なぜ人はくるみんのそばを離れるとき「また来ます」と言ってしまうのか。主任研究員は報告書の末尾にこう記した。
「おそらく、くるみんの部屋には"帰りたくない"と"でもまた来られる"が同時に存在している。その矛盾を解決する唯一の言葉が"また来ます"なのだろう。」
なお、この報告書を書き終えた主任研究員は、ファイルを保存してデスクを離れた。廊下の集音マイクには、小さな声でこう記録されている。
「……また来ます。」
彼の席はその部屋の中にある。どこに行って帰ってくるつもりなのかは、本人にもわかっていない。